架空鉄道 北九州電鉄データサイト
このサイトの内容は実在しない架空の内容です。

1-04.都市間電車という道 - 歴史

1-03.右往左往 へ戻る
1-05.行け、うちの町の興業電車 へ進む
歴史へ戻る

九州鉄道と筑豊興業鉄道の開業後筑豊炭田の石炭産出量は大きく伸び、鉄道開業の効果を裏付けた。 このことで麻川は鉄道のもつ大きな力を確信、これからも石炭産出量は伸び続けるに違いないと再び折尾~門司港間の線路敷設を目指した。 国の考えもそれを後押ししていた、国は九州鉄道が折尾~門司港間を開通させた後も現状の海側ルートでは重要なエネルギーである石炭輸送の要となる線路を他国の攻撃から守るには不十分と考えており、山側ルート建設の動きを否定していなかった。 しかし資金の面では鉄道の建設は依然として難しかった。この頃、鉄道の出資者や炭鉱経営者たちは増える石炭産出量に対応していかに現状の設備を増強させるかに関心をもっていた。 当然、新しいルートを建設するより現状の設備を増強させたほうが手間も資金もかからず、麻川らの新線計画はなかなか資本家たちの同意を得られることはなかった。

そんなさなかの1905(明治38)年、神戸で阪神電気鉄道が開業した。2都市間を高速かつ多くの本数で結ぶという画期的な発想のもとに開業した阪神電車は開業当初から大変な盛況を見せていた。 阪神電車の話は小倉にいた麻川のもとにも伝わり、旅客輸送でこれだけの賑わいを見せていることに驚き、旅客輸送も鉄道の重要な役割の一つだと認識させた。 当時、北部九州地域での鉄道の役割といえばもっぱら貨物輸送であり、特に筑豊興業鉄道では旅客列車といえば貨客混合が普通でせいぜい貨物列車の後ろに客車をくっつけるだけといった具合で、旅客輸送は重要視されていなかった。 しかし、貨物輸送量が増加していくのに比例するように北部九州地域の人口は増加しているのは確かで、この話を聞いた麻川は貨物輸送が成功していることと同様に旅客輸送でも成功がつかめると考えたのだ。 ここで、麻川は鉄道敷設の準備を再び進めることを決意、村山ら技師たちは麻川の依頼を受けて再び路線の設計にあたった。 かつての計画ではもっぱら貨物専用であったものを、阪神電気鉄道を参考に貨客ともに十分な機能を発揮できるよう大幅に書き直した。 電車の導入や駅間隔の短距離化を盛り込んだ計画を大々的に発表し、東京や大阪の有力者へ協力を募った。しかし、彼らの感触は良いと言えるものではなかった。 当時話題に登っていた都市間電車の計画ということである程度の話題を集めたが、彼らには門司や八幡はそれぞれ港町や製鉄所が立地する町として認識されていても、それらを電車で結ぶという発想に至るような印象は持ち合わせていなかった。 それゆえに、彼らの中で積極的に協力しようという者は少なかったのである。

再び鉄道敷設を決意した麻川の前には資金の問題が立ちはだかっていた。そんななか地元八幡の農家、門野 託四郎から思わぬ声が上がった。 線路用地の買収の際、周辺地域の土地を取りまとめており麻川と縁があった門野は新たな鉄道敷設計画を知り、「うちらが命を渡すつもりで売った土地を無駄にされちゃかなわん。」と麻川の計画に出資することを決意。 門野は周辺の有力者にも呼びかけ「八幡地区電車開通期成会」を設立、共同して出資、協力にあたった。 都市間電車の計画は地元への利益がわかりやすく、地元からの出資の動きは加速していった。各地域で出資、協力のための期成会の設立が行われ、麻川は地元の強固な協力体制を得ることができた。 これらの後押しを受け、麻川は1905年(明治38)年12月、私設鉄道法による門司市門司港より遠賀郡折尾村へ至る路線を出願。発起人には期成会の主要メンバーが並んだ。 当時、北部九州地域の鉄道には少なからず中央の影響があるのがほとんどで、このようにそれらの影響を受けていない鉄道は特異であった。 一回免許を返上した路線であること、また当時は鉄道国有化論の只中であり、再び免許が下付されるまでの道のりは大変厳しかった。 特に資金周りについては路線規模の割に地元出資者がほとんどという点から多くの指摘がなされた。しかし地元の「うちの町に電車を。」の強い声はここでも強い力を発揮する。 地元期成会の門野を始めとした主要メンバーは鉄道行政を管轄していた逓信省の担当者へ何度も直談判。これに折れる形で1906(明治39)年3月1日、出願どおり仮免許が下付された。 主要出資メンバーである期成会のメンバーが担当者のもとへ何度も訪れることにより、資金に関する信用が生まれたことも大きな要因であった。

1-03.右往左往 へ戻る
1-05.行け、うちの町の興業電車 へ進む
歴史へ戻る