架空鉄道 北九州電鉄データサイト
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1-02.一つの区間、二つの会社 - 歴史

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さて、当時の福岡県令安場 保和は港湾と同様に鉄道についても重要視した。 彼の考えていた門司港の予想図には岸壁だけでなく広大な鉄道ヤードも描き出されており、船舶と鉄道を組み合わせた効率的な物流システムを構築し門司港をその拠点しようと考えていた。 その計画に同意を示したのが丸栄商店代表の麻川であった。 筑豊の産炭業者と荷役事業を通じて近い存在にあった彼は、筑豊からの若松港などへの石炭輸送を支えていた遠賀川の水運が限界状態にあって、それに代わる存在として筑豊から若松までの間に鉄道を建設しようとしていることを知っており、鉄道が将来重要な物流の手段になることを信じていた。 彼はヤードのみならず筑豊から門司港まで直接結ぶ鉄道も敷設し、筑豊と一体の鉄道輸送網を構築しようと考えた。 この計画は門司港に注目していた筑豊の産炭業者たちも歓迎し、共同して筑豊~門司港間の敷設の準備に取り掛かった。 門司築港会社に投資していた東京や大阪の資本家たちにも協力を呼びかけた。 1888(明治21)年4月、私設鉄道条例により筑豊興業鉄道会社による穂波郡飯塚村より遠賀郡若松港に至る路線と遠賀郡洞南村(現在の折尾)より分岐して企救郡門司港に至る路線、加えて鞍手郡直方町より分岐して田川郡赤池に至る路線の3路線の敷設を出願した。 しかし折尾から門司港の間は政府の援助を得た九州鉄道が並行してすでに計画していた。政府にとっては一つの区間に複数の路線があるのは望ましくないということから、その区間について九州鉄道のみに免許を与えるという方針を示した。 巨大なヤードと直通路線を利用した効率的な物流システムを志した麻川らにとっては残念であったが、並行に路線を敷設すれば共倒れになるという危険性もあり諦めざるをえなかった。そんな矢先、陸軍大臣大山 巌より鉄道を管轄していた逓信省へ一件の連絡が入った。 その内容は「折尾から小倉を経て門司港に至る出願中の二路線について国防上認可を求めたし、但し相互の路線間の距離は十分に離すこと。」であった。 この”国防上”というのは富国強兵政策を推進していた日本にとって石炭が重要視されており輸送力を十二分に増やす必要があったこと、また万が一国土が攻撃されるような事があった場合鉄道は真っ先に狙われることになり、どちらかが機能を喪失してもどちらかで輸送ができるように”相互の路線間の距離を十分に離す”必要性があったのである。 この特例中の特例とも言える措置により”国防に資する”という大義をもった筑豊興業鉄道はその3路線について先の条件をつけて認められ1888(明治21)年7月30日付けで仮免状が下付された。

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